このブログを書いている2017年12月21日は、希代の悪役レスラー“上田馬之助”さんの七回忌にあたります。
奇しくも、晩年の病床での上田さんを支えた奥様の恵美子さんも本年9月、天国へと旅立たれました…
とにもかくにも1976年から1984年頃までの上田さんのリングでの悪役っぷりはホントにスゴかった😱
日本人である事を捨て去る…
そんな決意の元で髪の毛を金髪に染め上げ、凶器片手に日本人レスラーを次々と血だるまにしていく姿は本当に憎たらしく、
『もう顔も見たくない…ヤツは日本人の恥だ…😡』
そんなふうに思われてしまう位、テレビの前のプロレスファンから心底嫌われた存在でありました🙎
あの当時に日本人、しかも男でありながら髪の毛をブロンドに染めてる人なんか、テレビや映画にもまず出て来なかった…
今でいう“茶髪”の元祖は誰あろう“上田馬之助”さんだったのです☝ いやホントに😉
前例がない事をやる…って意味では、これもまたスゴいアイデア&勇気(笑)だったのではないでしょうか☝😆
そんな悪人の代名詞のような存在だった上田馬之助さん…
私も大嫌いでした。あの記事を読むまでは…😏
極悪レスラーとしてマット界を震え上がらせていた絶頂期、“月刊プロレス”という雑誌に上田さんが身寄りのない子供たちの施設を慰問している姿が写真入りで小さく載ったのです。
そこには照れた笑顔で子供たちの前に立つ、ひとりの“やさしいおじさん”としての上田さんの姿がありました✨
あの記事を目にした読者は皆驚き、思わず首をかしげたはずです…😲
聞くところによれば、上田さんはこういった活動を昔からひっそりと続けていたらしい…
では、せっかく浸透した極悪レスラーとしてのイメージが崩れてしまいかねない、あのような記事が何故世に出たのか…??
私が思うに、上田さんの本当の“人となり”を知っているプロレス雑誌のライターやスタッフたちが、どうしてもこのエピソードを世間に知ってもらいたい…という感情が抑えきれずに、ついペンを走らせてしまったのではないか…と😏☝️
記事といえば、週刊ファイト紙に時折掲載されていた上田さんへの単独インタビュー🎤
その際よく上田さんが訴えていたセリフがあるんです…
「来日外国人レスラーに支払うギャラが異様に高すぎる… もっと使い道があるはずだ😠」
こんな問題提起、とてもじゃないが単なるヒールレスラーの口から発せられる言葉ではないですよね👍
それとこんな事もありました、
当時、各テレビ局のプロレス中継では試合の解説を年配のプロレスライター達がそれぞれ担当していたのですが、その方たちが上田さんの話題に触れる際、一様に、
「上田“君”…」
と、こんなふうに必ず“君付け”で呼ぶのです…
馬場や猪木にだって普通に呼び捨てにしているのに…
これはきっと、昔から上田さんの人間性をよく知る者たちの、親愛を込めた“無意識的な特別扱い”だったんじゃないか…と私は思うのです…😏
盟友タイガージェットシンと共にそれまでの主戦場だった新日本プロレスから全日本プロレスに移籍した1981年には、人気テレビ番組“ヤングおー!おー! ”内の島田紳助氏のトークコーナーにいきなり登場!
衝撃のバラエティー番組初出演の瞬間でした😲
その後、テレビ・映画・CM出演、イメージソングのレコードや著書の発売…と活躍の場を一気に広げていった上田さん…
一見派手に思えるこの活動の裏には、静かなる謎のマネージャー、“本田治”氏の後押しが強くあったのではないか…と推測されます😏
試合での入場時、上田さんを先導してリングへと向かうスーツ姿の本田氏を当時テレビを観ていた方々は何となく覚えているはずです☝️
プロレスではお約束の、マネージャーが試合に介入してくる悪巧み的なパフォーマンスをする訳でもなく、上田さんを送り出した後は静かに関係者席で試合を見守ったり、そのまま控室へと戻ったり…
あの方の役割って本当は一体何だったんだろう…??
素朴な疑問としてその思いが今もずっと続いてたりします…😏
国内外の様々な団体での上田さんの試合を集めたDVDボックスとか出ないものかな…
純日本人初の本格的ヒールレスラーとして一時代を築き、晩年、病床でも人が訪ねて来る際には悪役レスラーの美学として髪を金髪に染め変え、トレードマークの竹刀を病室に飾っていたという…“本当のプロフェッショナルレスラー”上田馬之助さんの足跡を是非後世に遺して頂きたい…
切にこう願う訳なのです🙏
☆インスタもやってます📷https://www.instagram.com/aran_araki/
☆飼ってたニワトリの備忘録ブログです🐔
http://toppaddy3216.hatenadiary.jp/