特に阪神は商売上手で、出血を最小限に抑えて他球団の実績ある選手や有望株を引っ張ってくる術に長けていたように思います。
1975年のオフ、日本ハムから阪神にひとりのスラッガーが移籍して来ました。
”東田正義“
1971年のオールスター戦での江夏の9者連続奪三振達成時の6番目の打者であった事や、東京オリンピックに沸く1964年に日本人メジャーリーガー第1号としてアメリカで活躍し、一時阪神に在籍していたあの“村上雅則”との交換トレードで迎えられた事も強く印象に残っています。
この頃のタイガースのスターティングメンバーは、いにしえの“ダイナマイト打線”を知らない我々の世代にとって、今現在に至るまででの最高・最強のオーダーであったと確信しています。
1番セカンド・中村勝
2番ショート・藤田平
3番ライト・ラインバック
4番キャッチャー・田淵
5番ファースト・ブリーデン
6番レフト・東田
7番センター・池辺
8番サード・掛布…
主に7番を任されていた池辺選手も、前年の1974年オフにロッテから移籍してきた好打者でありました。
東田選手を獲得し、下位打線に他球団のスターだった選手を次々と組み込んだ事で、此処に相手チームの投手が恐怖する超パワフル打線の完成と相成ったのです。
しかも当時のタイガースのユニフォームがまた良かった!
クリーム色の生地に縦縞、そして袖口とパンツのサイドには赤穂浪士の如く、精悍なギザギザ模様の“輝流ライン”が施されていました。
この頃のオーダーとユニフォームの最強論に関しては、当時を知る私の周りの阪神ファンとも意見がピタリ一致します。
まさに“ドリームチーム”でした。
そんな思い入れのあるメンバーのひとり、東田正義さんが1月2日に永眠されました。
個性派俳優の様な強面のマスクもカッコ良かったし、甲子園球場でバントの構えから起死回生のホームランを放った試合の事も脳裏に焼き付いて離れません。
分かってはいる事なのですが、自分達が幼少の頃から影響を受けた方々が、毎年次々と鬼籍に入られるのは、やっぱり辛いです。
この記事を書いている途中にも、もうひとりの虎戦士の訃報を耳にする事になってしまいました…
“安達智次郞”
1992年度のドラフト1位左腕投手。
随分期待をされていた選手でしたが、故障等で1軍のマウンドにはついに立つ事が叶いませんでした。
引退後は確か、バーを営んでおられたと記憶しています。
テレビでも紹介された事がありましたからねぇ。
安達選手に関して何より異色だったのが、プロレス黄金期に逆輸入レスラーとして、“上田馬之助”や“ヤスフジイ”らと共にアメリカから参戦し、往年の国際プロレスで大活躍した、“ミスターヒト”(安達勝治)の甥であった事。
それを知った私たちプロレスファンは、他のどの選手よりも気に掛け、応援をしたものです…
安達智次郞さんは1月7日に永眠。
両虎戦士の御冥福を心よりお祈りいたします。
我々ファンを楽しませて下さり、本当に本当にありがとうございました。