もぎたて発☆ディストピア行

 〜よくばりな浪漫トラベラーに捧ぐ〜

“P-MODEL 第5のメンバー”のこと…

 

若い頃にパンクミュージシャンを目指して上京し、その後、志半ばで故郷に戻ってきた知り合いがいるんです。

その者曰く… あの当時、ふと気が付くと自分たちの代わりなど周りにゴマンといた…と。

こりゃあかんわ…と🙍

おかげで彼のその後の人生は、“他に代わりがいない存在になる!”を目標に奮闘し、ビジネスで一定の成功を収めるまでに至っています👍

 

ん…? 代わりが見当たらない音楽やミュージシャン??🎶

 

私の場合、影響を受けやすい多感な学生時代に幸か不幸かそういった音楽と出会ってしまい、運か不運かどっぷりハマったクチなのです😱💦

 

え~“P-MODEL”なるバンドがありまして…🎶

 

1979年結成&メジャーデビューのシンセサイザーを取り入れた4人組のパンキッシュなロックバンド🎸

あの頃、巷ではどれもこれもみんなまとめて“テクノポップ”と呼称してましたので、彼らのジャンルもそういう括りだと皆フンフン頷いておりました😏

興味がおありの向きには、youtube等でサウンドをご確認頂くとして、私なんぞ、それまでボーカルの入った音楽が大嫌いで、イージーリスニングやフュージョンやTVのサントラ位しかまともに聴いておらず、自慢じゃないですが、ビートルズだって一曲たりともエアチェックすらした事がありませんでした…😅

そんなある日、ツレが「聴いてみる?」って貸してくれた“YMO”と“PLASTICS”の入ったカセットテープ… これにすっかり💟を奪われてしまい、バイトして買い漁ったテクノなレコードをツレたちとシェアしている内、最後に行き着いたのがP-MODELだったんです☝

その後、パンクな姿勢を感じない…とかく芸能人ぽかったYMOへの疑念と、坂本龍一氏がD・ボウイとの対談で、P-MODELとそのファンを侮辱する発言をしたりした事で、既にP-が他に代わりのいない存在になっていた私は、それまで集めたYMO関連のライブやインタビューなどの入ったエアチェックテープを全て消去し、レコードは人にあげて手放すなど、その一切を忘れ去る行動に出たのでした😲

あんなにお気に入りだったのに…

 

もう敵視してましたね、YMOを😡

最近またちょこっと聴いてますけど…

これは内緒です🙅(笑)

 

P-MODELの何がスゴいって、もう全然カッコつけてないんです、ロックバンドのくせに😲

英詞の部分も意図してカタカナ英語で歌ってるし…

これにはロックボーカル嫌いの私もコロッとイかれちゃいました😆

曲調もシンセパンクって趣なのに、何故か一般ウケもする不思議な魅力があったんです☝

普段、サザンやユーミンのコンサートに行ってるような同級生たちが何度私の所にP-のテープやレコードを借りに来たか知れません😁

ラジカセをMAX音量で鳴らし、繰り返し何度もP-MODELを聴いてる私を白い目で眺めていた妹も、「声が裏返る所が笑える…」って理由で、“ヘルスエンジェル”だけは聴かせてくれと度々ねだってくるほどでした(笑)

 

そもそもP-MODELっていったい何者なん…??

 

1978年の末…結成に向けてのミーティングでアイデアを出し合ったのは、ボーカル&ギター担当の“平沢進”氏、キーボード担当の“田中靖美”氏、そして平沢進の兄でグラフィックデザイナーだったブレーン的存在の“平沢YOU1”氏、この3人であったという…

(メンバーは他に、ベース担当で一番女性ファンの多かった最年少の“秋山勝彦”氏と、ハンマーでぶっとい釘を打ちつけるが如くのパワフルドラミング&強面担当の“田井中貞利”氏。)

 

P-MODELの1stアルバムのジャケットをデザインしたのもYOU1氏☝

このジャケも、誰もが思わず手にとってしまうような、他のどんなレコードよりも秀逸で、ワクワク感を大いに掻き立てられる代物でありました✨✨✨

 

平沢YOU1こと平沢裕一氏は1950年10月5日東京都葛飾区生まれ。この記事をアップした4月2日は平沢進氏の誕生日… となると現時点で3歳上の兄という事になりますね☝

経歴としては、前身バンドの“マンドレイク”の時代からステージ装置やバンドTシャツなどのデザイン&製作を手掛け、1979年からはバンドの個人事務所のリーダーとして、P-MODEL名義で発表されたアルバム8作品のアートワーク全般、1st収録用に2曲の歌詞を提供、ライブやイベント等で流すPV等の映像制作、それにフライヤーやFCの会報などなどのデザインまでをも担当されていたという…😊

都心部でのライブにも帯同し、あるイベントでは、アンコールに応える事を一切禁止された観客無視のプログラムに対し、それを良しとせずに演奏を強行したP-MODELに妨害行為を加えようと迫る現場のディレクターに立ち向かっていった武勇伝も…👊

この頼もしさゆえ、裕一氏はメンバーたちの精神的支柱だったのではないでしょうか😉

 

今ではもうこの世の中になくてはならない存在のミュージシャンである、平沢進氏…

リスナーをアツくさせるあの歌詞やギタープレイも、もともとは裕一氏に“読書”の重要性を説かれたり、先にギターを始めていた氏の影響を受けたのがそのルーツ。

海外のパンク/NW系のPVにもいち早く注目して入手し、それを自分の家にメンバーを集めて見せていたのも裕一氏の功績👍

それらを考えるとP-MODELの誕生は裕一氏の存在なくして成し得なかったという事になりますね😆👍

 

あ…そうそう、裕一氏にはミュージシャンとしてのキャリアもあり、ドアーズ等に影響を受けたバンドのベーシストとして、かつてはマンドレイクと対バンした事もあったそうな…😲

 

P-MODELの1stアルバムのデザインは今でも見る度に気持ちが高揚してくる位カッコいいのですが、7作目の“カルカドル”にも私たち古参リスナーには強い思い入れがあります。

なぜなら、オリジナルの立体造型に着手し始めていた裕一氏の作品群の写真がこのアルバムのジャケットにフューチャーされていて、当時その作風が話題を呼び、ジャケのイラスト部分を担当した“武藤佳世”氏と共に、銀座プランタン主催“人形たち展”に於いて見事グループ賞を獲得したり、その後もNTTのTVCMにて氏の造型作品が採用されたりしたからなのです✌

 

余談ですが、武藤氏にはP-MODELが作ったオリジナルのテーマ曲があり、1983年頃のライブではその曲の演奏時にステージに現れ、着物を着て踊る芸者パフォーマンスで観客を幻惑しまくっておりました😱

 

それと私的にもうひとつ☝

カルカドルが発売された1985年、私は東京の国分寺に住んでいたのですが、アパートから駅までの間の坂の途中に、“GOK”という1979年創業の音楽スタジオが当時あって、何とこのアルバムはそこで録音されたのだという…😲

こんな嬉しいニアミスがあったと言うのに、あの時は全く気付きませんでした😥

ま、それも楽しい思い出です😏

 

 

さて、今回は少々マニアックな記事であったかも知れませんが、私にとってP-MODELと裕一氏は、常に勇気と希望を与えてくれる存在だったんです💪

P-と裕一氏の活動の歴史を紐解く事は、私が生きてきた証にもなるのです😏

 

生きる事に疲れていた時…

『ここでくたばったら次のP-MODELの新譜を聴けなくなるやないか!』

この気持ちで頑張れた自分がいました😌

型にはまらないP-の姿勢は、自分が生活をしていく上での考え方などに今でも非常に役立ってる気がします✌

 

今改めて…

『このバンドに出会えてホントによかった!(^O^)v』

 

みなさん… 特に学生の方々、

P-MODELを聴き… い、いや、大いに本を読みましょう(笑)

 

さてさて、

実は先日、平沢裕一氏にお会いする機会があったんです!🙌

氏が主催する神出鬼没のオーガニック・カフェ、“YURU GAZI”。

ここを訪ねてきました😄

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名物、玄米ベジカレーはホントに美味い!🍛

3年ぶりに食べましたが、やっぱ美味い!🙆

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平沢裕一氏!

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手に持って頂いてるのは、氏がデザインしたP-MODELの1stとカルカドルのCDジャケット。

無理にお願いしてそれぞれにサインを入れて頂きました🙇

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将来、裕一氏の作品をまとめて収録した画集や写真集やDVD等を是非とも発売して頂きたい処ですが、かつて“VIDEO GIG”と名打たれた、裕一氏の映像作品を一挙に集めて上映するイベントが開催された事があったんです☝

1983年8月24日、六本木の“クーリーズクリーク”というイベントbarがその会場でした。

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当日会場には裕一氏、P-MODELの当時のメンバー、平沢・田井中・菊池・三浦の各氏、Shampooの折茂氏らが集結!😱

駆けつけたファンたちと一緒に作品を鑑賞するという夢のようなイベントでした✨✨✨

あ、もちろん私も現場に行ってましたよー✌

内容的にはP-MODEL関連のPVが主ではなかったかなぁ…

 

実はこの時にも上映されなかったP-MODELの幻のPVがひとつあるんです。

“偉大なる頭脳”

古い資料には、“21st センチュリーワンダーランド”(2ndアルバムのライナーにスペシャルサンクスとしてその名の記載あり。)制作とある…

これには裕一氏は全く関わっておらず、当時存在した言わば、“おもしろ企画集団”が手掛けたものなのだそうです☝

残念ながら映像はもう残ってないだろうとの事…😢

 

裕一氏にお会いした帰り、あの当時P-MODELを観る為に何度も通ったライブハウス、“旧新宿ロフト”のあった場所を訪ねてみました😂

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たまたま居合わせた郵便配達の方に跡地を確認したら、ここだと…😓

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そこは、もう当時の面影なんてどこにもない立派な高層ビルへと変貌しておりました💧

しばし呆然としながらも、かつてこの場で躍動していたP-MODELのメンバーに想いを馳せて、さっきサインを頂いたジャケットをステージのあった辺りに掲げてみました。

嗚呼… 寂しい😢

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“🎵60階へ~”…

まさかそこまで高くはないか(笑)

 

P-MODELの1st、3rd、4thアルバムが録音されたのは、かつて池袋の、現在は乙女ロードと呼ばれる界隈にあった“サンライズスタジオ”。

ここも1984年に六本木に移転していて、もうとっくに無くなってるんですよねぇ…😩

 

だ、だがしかし!

P-MODELが1979年3月16日にデビューライブを行った“下北沢ロフト”はオーナーは代われど未だ健在!

今回時間がなくて行けませんでしたので、ネットからお借りした現在の写真を載せておきます🙇

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ここだけは無くなって欲しくないなぁ…😏

 

 

さて今回の記事は、自分のブログにどうしても書き残しておきたかった入魂の内容ゆえ、長くて少々読みづらくなってしまった事をお詫び致します🙏

YURU GAZIでの写真は平沢裕一氏に使用許可を頂いております。記事中の内容については自分の記憶と大切に保管していた公式/非公式の資料などを参考に構成していますが、若干事実との相違点があるかも知れません。

それらについては今後、加筆修正にて更新していきたいと思っております😌

 
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“ひらさわ ゆういち”

1950年葛飾区金町生まれ。

ロックバンド“じょうじマヨン”での音楽活動ののち、“マンドレイク”のステージ視覚効果を担当するチーム“ディヴァイス・マンドラゴラ”を結成。1979年からは“P-MODEL”の事務所“モデルハウス”のリーダーとして活動を全面バックアップ。1stアルバム“イン ア モデルルーム”には作詞担当として“サンシャイン・シティ”と“子供たちどうも”の2曲を提供。本職であるグラフィックデザイナーの技を惜しげもなく注ぎ込み、P-MODELとその周辺バンドである、“バッハ・リヴォリューション” “Shampoo” “旬”などのレコードジャケットやPV、宣材等をデザイン及び制作。1986年には銀座プランタン主催“人形たち展”に於いて、武藤佳世氏との共作で出品した“いれずみの男”でグループ賞を獲得。

現在は2013年に筑波にオープンしたcafe gazioを発展させた“studio gazio”の主宰者としてweb番組の配信、オリジナルCDや作品の販売、アートやライブのイベント開催、不定期に東京各地に出現するオーガニックcafe、“YURU GAZI”のマスターなどで精力的に活動中!

http://gazio-tx.com/stgzo/

 

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